暴走機能付き玩具vsどうにかしたい僕

子供は成長する。

僕も成長してきた。

やらされるのではなく、やりたいことを、口で言うのは簡単だが、どうすればそういうことができるのだろうか。

「主体的」な姿は見せかけることもできる。それは本当に主体的なのだろうか?

 

霧吹き状のあめが空から降り注ぐ。

雨の日は頭が痛い。低気圧のせいだ。

髪の毛は縦横無尽に畝る。毛先は常に明後日の方向を向く。

そんな中、僕たちは「主体的」に今日のある出来事に参加した。

「コーチの真似っこ」である。本気で考え子供達のために何度もシュミレーションをした。

しかし、彼らからは児童の実態が送られてこない。

味噌の味がわからないのに味噌汁が作れないように、子供の実態がわからなければ、今日の2時間だって、実を結ぶのは困難な話だ。

低学年と聞いていた彼らの中には、幼稚園児も含まれていた。幼稚園児に2時間はきつい。もっと言えば、小学生にもきつい。

前半は元気良く返事していた彼らは30分も経てば時間を過ごすだけの玩具のようなものだ。

意思とは関係なく、ひっきりなしに体が動く。

集合、子供たちを集めたはいいが、足元に仰向けの少年があらわる。

ここはリビングか!と突っ込みたくなるような横暴さ。これがちびっ子なのだ。

感じのいい保護者が、低学年は競わせる方がいいと言っていた。

それは低学年の話だ。挑戦したはいいものの、幼稚園組は鬼ごっこに夢中。これが現実。

体力と共に精神力が削られる。

ラグビーがやりたくて集まったわけじゃないのだろう。親が習い事をさせたいがために集まった玩具達。ガチャガチャと音を立てながら、暴走機能付きの操り人形を僕は操作した。

これは本当に「主体的」なのかな?難しいところである。

低学年の学習指導は遊びが基本だ。コーチングをしてくれ。とは言われても、保護者の前で遊ばせるのはどうなのか。

頭には葛藤と焦燥そして、何もしてくれないもともといるコーチ陣に飽き飽きする。

今日は疲れた。

 

皮肉をめいっぱい込めて愚痴を書き込む僕だったが、子供は可愛い。正直またやりたいと思った。

子供たちはよく言えば無邪気なのだ。特に低学年以下は、自分に正直でありのまま全力を尽くす。そのベクトルが間違っているだけだ。

12人と聞いていた当日の子供たちは、数えただけで15人以上、その子供たちの舵を切ることができなかった。

 

まだまだだったなぁ。