思い違いですよ、それ
よく、自分は晴れ男だ。雨男だという人がいるだろう。
しかし、本当にそうなのだろうか?
今日晴れたのは、きっと誰のせいでもなく、天気の仕業だ。
晴れたことに晴れたのは自分のおかげだと後から理由をつけているだけなのだ。ーーー
ある男がこんなことを言った。
「家を早く出た時に限って君たち来ないよねぇ〜もしかして、僕の家の前にセンサーでもつけてる?笑」
きっと彼は本気でそう思ったに違いない。
早く来た時に「限って」そうなる。
さらにはこんなことも言うかもしれない。
「朝起きた時には運命が決まってたんだね。」
本当にそうだろうか?
世の中の事柄は、すべて何かの因果で起こる。
雨が降るのは空気中の水蒸気が空に登っていくためだし、夏が暑いのは、地軸が傾いているからだ。
では、もし仮に、彼の力が「君たち」を来させないようにしたと考えるなら、そのメカニズムを解明できれば、ノーベル賞ものだろう。ーーー
世の中に「限って」と言うものはない。と私は思う。
そんなものは都合の良い解釈によって生まれた心の安寧だ。
運命の仕業にすることによって、人間は心の負担を減らしてきたのだろう。
雨男、晴れ男もそうだ。
降ってほしい時に晴れる。
晴れてほしい時に降る。
そう言ったときは悶々とする。仕方ないと思いつつも諦めきれない。
「雨男、晴れ男」と言う運命だから…そんなことを思いながら、気持ちを曇らせるし晴れさせもする。
加えて、厄介なのが、こういった人生の場面は印象に残りやすいと言うことなのだ。
自分にとって大きく感情が揺らいだ時、記憶というものは残りやすい。
きっとある男も、友達がいつ来るかいつ来るかと待ちわびてこないと思った瞬間、記憶の1ページに色濃く描写される。
昨日の夜ご飯を覚えていないのは、この反例である。
「夜ご飯を食べる」というのは一日のルーティンであり、感情が揺らがない。
「夜ご飯を食べない」時の方が、空腹に対する我慢の心が揺らぐ。ーーー
人間とは都合の良い生き物だ。
自分がいい風にとらえるに決まっている。
そう捉えそうになった時、立ち止まって一歩下がって見ることが、私たちには重要なのだ。ーーー
そういえば、友達が来ない今日に限って砂糖ではなくミルクが二つだったなぁ。